自分のスタイルを守りたい


私の撮影スタイルも、ここ10年を考えただけでも絶えず変化している。それは個性が無くて、行き当たりばったりってこととは違う。
底辺に流れているものは、変わっていないわけだが、それは年々その傾向が強くなってきているのを自分でも感じるわけだ。

そんな私だが、最近は人の撮った写真を見る機会が増えたが、写真として見ての完成度よりも、撮り手の個性を見つけるのが面白い。
どんな初心者であってもそれはあるようで、1年も撮り続けていれば、けっこうはっきりと個性が出てくる。
そして、個性とは少し違う方向かもしれないが、この人は何を考えて撮っているのか・・・または、何がこのシャッターを切らせたトリガーになっているのかを想像するも面白いものである。
いい機材で、好きなモデルを撮る事は、ウキウキするであろうことは、私もそうであるから分からないではないが、描写に酔ってはいけないと思っている。酔っ払いにまともな判断が出来ないのと同じである。

どんなに気に入ったレンズであろうとも、ケースバイケースであって、それを使って満足しきっていても、見る側の8割にとってはそんなこと気付くどころか、どうだっていいわけだ。
まぁ、新しいレンズを買うまたは欲しくなるのは、カメラ雑誌の記事からであることが多いが、ここに勘違いが発生する要因がある。読者はそれに興味がある人であるから、それをターゲットにした記事であることで、購買意欲が湧けばカメラ業界が栄え、雑誌の売上にも跳ね返ってくる。
だから、読者は欲しくなって当たり前。さらに、インプレッション記事のイメージ写真が頭から離れないわけだ。
しかし、カメラに興味の無い人が購買層のほとんどである写真集には、使用した機材や感材の表示など一切されていないのである。この差を考えてみると、何かが見えてくるのではないか。

私も、このレンズは取っておき≠セと感じているEF135mmF2LとTS−E45mmF2.8は、一回の撮影で必ず使うものであるが、見る側に押し付けるような使い方だけはしたくないと思っている。

その場で自分がどう表現したいかをまず考え、それにレンズを合わせて行ければいいと思っているが、まぁその逆もたまにはいいと思っている。しかし、その時はこのレンズじゃなきゃダメだって思えなければ意味が無い。その意味が感じられないまま、自己満足で終わっていたりすることが、目に付いてしまうのである。
別に人の事だから、放っておけばいいのだが、つい気付かせてあげたい気分になってしまう私である。
幸い、誰もが快く受け入れてくれたように勝手に私は理解しているが、永くやって来たものが気付いたことを伝える事は、聞く耳を持っている人に対しては必要な事だと思っている。

キヤノンのレンズの中では憧れとなっているLレンズであるが、それも勘違いしている人が多いと感じていて、3Lズームとか言って、広角、標準、望遠の3本をLレンズで揃えることに喜びを感じている人種は理解に苦しむ。それがどうした?って想いしか私には浮かばない。
もう1本EF85mmF1.2Lと言う、名前だけが一人歩きしたようなレンズもあるが、ポートレートをメインで撮っている私も例外に漏れず、かつて憧れを抱き所有している。しかし、私の撮影スタイルを崩すレンズだと感じた瞬間に、新品で購入したこのL玉は防湿庫に眠ることとなり、前玉にキズのある安い中古のF1.8を入手していた。そして、こいつは私と一緒に『素顔のままで』のすべてのシーンで傍らに居る。
しかし、またいつの日かこのレンズを引っ張り出したくなる時が来る日の予感もあるのだ。

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