二人のバランス


クルマの車検の期限が25日までだったので、慌てて実家の近くに出してきた。普通のクルマではないので、どこにでも持って行けないのである。それで8ヶ月振りに電車に乗ることになったが、暇なので駅前の本屋で新製品のチェックでもしようと肩のこらないカメラ雑記を買った。

パラパラっとめくってみると、広告ページに撮影会の告知がズラっと並ぶ。主催者を知っているところも多く、2年程前までは関東中心だったが、最近は大阪でも多く見られるようになっている。特に関西では大手企業の主催する撮影会しか女の子を撮る機会が無かったのが、ほんの数年前までの状況であった。あったとしても、いいモデルが撮れないことが多かった。
ただし、このいいモデルってのは、肩書きや表面的なルックスのことである。無名でもいいモデルはたくさん居るのでそれだけは誤解無きように。そしてその逆もありってことだが、一般のアマチュアカメラマンの写欲をそそるのは肩書きであり、見栄えのいい宣材写真であるのは仕方のないところだ。

まぁ、そんなことは置いといて、写真をはじめてポートレートを撮りたいと思っている人は多いと思うが、そういう人にとっては間口が広がり選択肢も増えて、ポートレート体験しやすくなっているように思うのである。
その中から、モデルの女の子に熱を上げる人も居るだろうし、自分のカメラに向かってニッコリ笑ってくれるベッピンさんにファインダー越しではあるが、ドキっとさせられ「こんな世界があったのか!」と思わず通いつめてしまい、写真に対する興味も倍増ってことになるかもしれない。
でもそんな動機は不純でもなんでもないと私は思うのである。そんな感覚がまったく無いまま撮っている人の方がよっぽど気味が悪いし、味のあるいいポートレートは撮れないように思う。

しかし、そのようなカメラマンを私は全面的に肯定しているのではなくて、その中からどれだけ写真の楽しみを優先してくれる人が現れるかなのである。
私も、撮影会に行ってポートレートの魅力にはまった何人かの人と付き合いがあるが、お気に入りのモデルに惚れ込むことはいい撮影をする上で重要な事だが、惚れ込むのとのめり込むのとは大きく違うと言うことがある。

のめり込んでる写真って、なんとなく私が感じるのは、そのモデルに対してすべてを許し、すべてを受け入れてしまっているように感じるのだがどうだろう。多分、本人には意識がなくてそうなっているのだろうが、モデルがすることなすことすべてに対して受身であるように思うのだ。
それも初期のうちは悪くないとも思っていて、その間にピント合わせや露出の設定、構図などを実践で身に付ければいいのだ。ただ、毎週毎週、週末になると撮影会へと取り付かれたように出かけるのはどうかとも思う。モデルと出会ってシャッターを切るだけが撮影ではなくて、撮った写真をじっくり吟味する時間も大事にしてもらいたいものだ。それは、単にモデルの女の子に会うための道具としてカメラを持っている人に対しては、何も言うまい。

また、受身撮影に関してであるが、少々気になることがある。撮影会主催者側からの要望として、モデルに対して声を掛けたり、ポーズを要求するような行為は参加者に自粛を呼びかけている場合が多い。ただ、これをそのまま鵜呑みにして静かな撮影会にして欲しくないわけだ。主催者としては、身勝手な行為をする一部の参加者に対しての警告であり、後のトラブルを事前に考慮した上でのことである。

モデルだって、カメラマンからリクエストされたり、声を掛けられた方が断然やり易いわけで、モデル側からの一方的な“提案型撮影会”なんて根本的におかしな話である。常識的な範囲でカメラマンがアクションを起こしてあげたいと思うのだ。それが出来ないようなら、今後素人やそれに近いモデルを撮る機会に巡り合った時に、今までどれだけモデルの技量に助けられていたか身にしみて解るってものだ。

私の撮り方を一番知ってるまなちゃんとの撮影でも、私は1cm刻みで顔の位置を決めることはしょっちゅうあるし、光の当たり具合を顔の角度で微調整したり、木漏れ日を使う場合なども細かく位置を決めて撮っている。それを毎回やってるので、まなちゃんも解ってくれているが、今でもその都度やっていることだ。イメージの膨らませ方や、表情については、私が決めたシチュエーションに応じて、絶対的な信頼の上でまなちゃんのセンスに任せているから、何でもかんでも私の指示どおりなんてことではない。それでなくては、まなちゃんだって楽しくないはずである。この辺のバランスが取れて初めて気持ちのいい撮影が出来るのである。
だから、撮影会だって結局モデルとの二人であるかのように思える瞬間をどれだけ作れるかって大きい。


<−戻る