四次元の世界へ
写真と言えば、単純に考えれば平面であるから絵画と同じく二次元のものである。しかし、その写真から立体感を出す事は出来そうである。絵画では表現し難いボケもあるし、陰影でも表現できそうだ。また、そう言うものを抜きにして立体感のある写真と言うものは存在する。そうなると三次元ということになろう。
さて、そこでもう一つの要素として時の流れが感じられれば、もう一つ加わって四次元の世界に流れ込むのではないだろうか。
「笑って!」とリクエストして、ニッコリ笑った口元をキープして静止してもらっていたのでは、その時の流れどころの話しではない。そこを無理に感じようとするならば、「早くシャッター切ってよ、歯が乾いちゃうよ・・・」&「ちょっと待ってね、ピントしっかり合わせたいんだよ」なんて心の中でのやり取りの時間は流れているかも知れない。しかし、それはモデル経験&撮影経験のある者にだけ感じられるものであって、そんなものは何の価値も無い。写真を見る人の大多数はそんなこたーないのだから。
私がまなちゃんをモデルにして撮影したいと感じたのは、その四次元の世界へ導いてくれそうな気がしたからである。しかし、当時はそんなことを具体的に考えていたわけわけではなく、それまで感じなかった何かを感じさせてくれたからである。
遠くを見てれば誰かが向こうからやって来たのを見つけたようにも思えるかもしれないし、何か思いを巡らせているようにも見える。眼を伏せれば何を想っているんだろう・・・?って色々想像させてくれる。レンズを見つめてくれれば、どんな気持ちのやり取りがあるのだろう?この直前までどんな会話があったんだろう?なんて部分まで一枚の静止画の中に写し込めるのではないだろうか?また、声や笑い声が聞こえることもある。
他にも色々なシーンで数百分の一秒の瞬間から、その前後の時の流れを感じ取れることってあると思っている。
私がこれまで「空気感を撮りたい」と言ってきたのは、その時の流れのことでもあるのだ。
私がスタジオでの撮影を好まないのは、そこが大きいのである。もちろんスタジオ内だって時の流れは創り出せるであろう。しかし、ニセモノで作り上げた閉ざされた空間ではどうしても私自身の気持ちが高まらないのだ。私なんかより感性豊なまなちゃんであれば、難しくないのかもしれないが、こと感受性となると話は違ってくるのではないだろうか。
生まれながら持ち合わせている感受性を呼び覚ますのに、スタジオだなんて失礼なことだと思うのだ。ワンルームのマンションの一室だって、そこから四次元の世界への扉は開くと思っている。
増してや、もっと感じるロケーションなら、期待度はグンと高くなる。
最近、ある女性から「子供の写真は撮らないんですか?」って聞かれたのだ。そう言われれば、子供の写真って撮ること無いな・・・って考えさせられたのである。
そこで、私はこう答えたのである。
残念ながら子供の写真を撮ることってないんですが、私は“モデルに仕事をさせない”撮影がしたいと思っています。
どう言うこと?って思うでしょ。それは、こうすればいい表情だとかこの笑顔には自信あるとか、そう言う頭でっかちな部分を削ぎ落としたいんですよ。
子供にはそう言う余計な計算って言うか雑念がないでしょ?ありのままに感じたままを表現してくれているから、魅力的なんだと思います。
「あっぱれさんま大先生」に出てくる、こまっしゃくれた女の子ってぜんぜん可愛くないじゃないですか。だからあの番組は好きじゃないです。
なーんて、やり取りがあったが、ふとしたことや、写真の知識とかがまったく無い人からの何気ない言葉に色々考えさせられるものなのである。