リアリティーとは


先日、NHKの深夜番組でCGを使った映画作成について放送されていた。その時に改めて感じたのだが、CGを使った映画では俳優は実際に存在しないモノを相手に演技をすることが多いようだ。
それって大変だろうな・・・って感じたのである。事前にイメージを膨らませて演技に挑まないと、後に完成したものでは浮いてしまいそうである。
詳しくは知らないが、クロマキーとか言う手法で、ブルーのものは透明化GIFのように透けて、そこに自由に映像が映し込めるから、未来都市のバックにCGの人物やロボットなどが出現することになる。こんな状況で演技をするのは難しそうって思ってしまうのである。

私がスタジオでの撮影をするより、ペンションを貸し切る方を選んでしまうのは、それに近いのである。
決してスタジオ撮影を否定しているわけでは無いが、私の撮影スタイルと言うか思想と今は違っていると感じるのである。
まなちゃんぐらい、自分なりにイメージを膨らますことが上手いモデルであれば、スタジオであっても無難にこなしてしまうかもしれないが、一人芝居に近いポートレートでは、少しでも自然に感情移入しやすい環境を与えてあげたいと思うのである。また、今はそれをアピールすることが私の使命のようにも感じる。

一人芝居と言っても、目の前に居るカメラマンが共演者とまで行かなくても力を貸してあげることは充分出来る。または、その日の季節、天気などを考慮して決めたロケーションをどう受け取ってくれるかも、重要な要素である。そこまで感じ取ってくれるまなちゃんであるから、撮影地選びも適当には考えられないのである。

逆に、その意味が無いモデルもいるかも知れないし、そんな考え方が理解できないカメラマンもいそうだが、まなちゃんと出会えた私は幸せなのかも知れない。
一流企業が主催する大規模撮影会に出ているモデルとまなちゃんは、違う種類のモデルだと思っているが、不特定大多数を相手にパフォーマンスを演じているモデルを遠巻きに撮っている撮影会とは根本的に違う撮影だと思っている。
大勢を集めている人気モデルには、なかなか自分の意志を伝える事は困難であり、結局はモデルの一挙手一投足を見逃さないように遠くから撮ることになるが、これはこれで役に立ったと思っていて、制約の多い中で試行錯誤することは決して馬鹿には出来ないのだ。しかし、1:nの撮影なのだからなかなか、モデルの気持ちを独占したと言う感覚はなく、写真を見てもそれほど愛着のあるものとはならない。

次の段階として小人数の撮影会に足を運ぶ事になるが、マンツーマンになれる時間はあっても、所詮は1:nの集まりで、その枠を超える事はなかなか困難である。そこを何とか崩しにかかることが大事で、一瞬でも撮影会であることをモデルに忘れさせたいものである。そのためには絶対に何かカメラマン側からのアクションが必要になる。
例えばこの季節であれば、「ちょっと寒いけど、コートの前を開けてみない?そうそう、あっ!中に可愛いの着てるやん。大丈夫?寒くない?」なんてやり取りをして、その会話の流れの中で撮り始めれば、少しは変わってくるはずだ。もちろん望遠レンズなんか使っていたら問題外で、服装を手直ししてあげれる空気まで作れればほぼ成功である。“モデルに触れないで下さい”なんてルールがあっても、それが許される空気ってあるものだ。
これが上手く行けば、コートを脱いでノースリーブになってくれたりするのである。そして、そのいい気分になってくれたタイミングを逃さずに撮ってしまい。我に返って寒さを感じてしまう頃には「ありがとうね!」って他のカメラマンに譲ってしまえばいい。
但し!これはあくまでも、気心が知れた仲間とモデルでの撮影会ででのことであって、こんなことが何処ででも出来ると思わないで頂きたい。たとえ仲間内であったとしても、「うまく空気を読んでやらないと、最悪の場合モデルには嫌われ、主催者には要注意人物と認識されかねないので、そのつもりで・・・。私が主催したとしても、ケースバイケースでしっかりチェックをするつもりである。これを鵜呑みにして、とんだ勘違い君になってしまったのでは元も子もないのだ。

私はモデルはオブジェだとは思っていない。感情のある生身の女性なのだから、きっと何かが返ってくるはずである。それが自分だけに向けられたものであることはとても大きな価値があるのだ。


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