適材適所


まなちゃんとは、これまで30数回の撮影を行ってきている。これだけ撮っていれば、ほとんどのパターンを網羅しているように思われるもしれないが、そんなことはぜんぜんない。
赤い花、白い花、黄色い花、大きな花、小さな花。細長い花、扁平な花。色も形も咲く季節もみんなちがっている。一つの花にすべてを求めることなどできないのである。

まなちゃんがどんなに優れたモデルセンスを持っていたとしても、決してオールマイティーではなく、やっぱり守備範囲っていうものはある。
大きく口を開けて、ギャハハッって笑い声が聞こえるような撮影はゆみちゃんが得意だし、誰にだって適性やキャラってものがある。
自分が自分らしくいられることこそが一番大事なのである。だから、まなちゃんに限らずそれを大切にしてきた結果が、私の写真なのだ。「適材適所」こそ、どんなジャンルでも一番のパフォーマンスを発揮することなのは疑う余地も無い。

ただ、適切な多様化はいい結果を招くことも多いのは間違いないから、常に相手を知る努力はしているつもりである。夫婦でさえも、相手のことを100%知っているはずもないし、それだからイイのである。
逆に、女性がみんな同じであったなら、この世から「浮気」なんて言葉は絶対に生まれなかったことであろう。
その多様化のきっかけを感じるために、子供の頃に過ごした場所に行く事もあれば、一緒に買い物に行って、服を買ったり映画を観たもするが、それが、撮影目的のためだけにやっているわけでもなかったりするんだ。

たとえ『素顔のままで』と銘打っていても、写真の中でのまなちゃんでは見れない部分をいっぱい知っていたりする。大好物を目の前にした時の表情、ハンドルを握った時の変貌ぶり、R&Bを聞いているときの様子は大切にしまっておきたいものだ。もっと言えば、私が知らない表情がたくさん存在するはずである。
それらすべて撮らせろっていうのは、いくら仲良くしてたってちょっと違う気がするのだ。撮ることがあれば、それはその時期が自然に訪れたということになるだろう。

また、仕事として私のモデルを受けてくれていたのなら、多少自分の納得がいかない撮影であったとしても、嫌な顔せず承知しなければならない雰囲気になってしまったかもしれない。しかし、私はそれ以上ないほどそのことを気にかけて接している。たとえそれが、お互いノーギャラの撮影でもだ。いや、そんな関係だからこそ守らなければならない暗黙のルールはあるはずである。決して二人で取り決めをしたわけでもないのだが、「親しき中にも礼儀あり」ってことだのだ。
きっと、まなちゃんは、私との撮影前に緊張感を抱くことなどは皆無ではないだろうか。でも、それこそが『素顔のままで』そのものなのである。

過去にモデルとしてだけのまなちゃんを知っている人から、意外な写真だったと意見を聞くにつけ。正直言って、私は他のカメラマンが捕らえたことのない部分をたくさん知っていると、いささか優越感に浸った時期も初期の頃は確かにあった。しかし、そんな感覚も一時のもので、すぐにそれが当たり前と言うか、二人の付き合い方と『素顔のままで』の撮影の歩調の足並みが揃ったという感じだった。
自分との撮影だけのまなちゃんと言った、ヘンな感情と撮影のアンバランスもいつしか消えてしまっていたのである。
そんなアンバランスな状況が残り続けていたとしたら、5年を超えるようなことはなかったのではないかと思うのである。上手く説明できない自分が歯痒いが、理系の私としては元々文才がないので致し方ないところか・・・


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