神が降りた瞬間


この撮影雑記もついに400話となった。そうなれば、もうこの話題しかないだろう。
5年前の私は多くの撮影会に出向き、多くのモデルとの撮影を楽しむアマチュアカメラマンであった。確かに多くのモデルと出会い、その一人一人との撮影を通じて色んなことを学ばせてもらっていた。それと同時に撮影技術に対する向上心も並大抵ではなかった。
そんな頃にホームページを作り、同時にこの撮影雑記の執筆も始まったわけで、充実もしていたが、何か物足りない想いが拭いきれなかったとも言える。
そんな時に、まさに“神が降りた”と表現したい出来事がまなちゃんとの出会いであった。その意味をダイレクトに女神が現れたと言ってしまったのでは、この撮影雑記らしくないし、そんなに単純でもない。

顔を合わせてから撮影が始まるまでは、それまで撮ってきたモデルたちから受ける印象とそれほど変わらなかったのである。まぁ表面的な美人を見慣れてきた時期でもあったのだろう。当然のことながら、私に対してのまなちゃんだって、単なるカメラマンの一人にしか見えなかったことであろう。
プライベートでも、私が知り合う女性の皆がみんな口を揃えて言うことは「キレイな人ばかり見て目が肥えているから、私なんて恥ずかしくて」って言葉。「またか・・・」と想いながら、私はいつも「そんなことぜんぜんないって」と答えるし、実際に美形としか付き合わない主義の私はウソをついたり、誤魔化しているつもりはなかった。
しかし、冷静に自己分析してみれば、目が肥えてきていることは間違いがないようだ。だから、申し訳ないがまなちゃんに対して撮る前から気持ちが昂ぶった記憶はないし、女神が現れたなどとは思わなかったのである。

しかし、撮影を開始してからはその想いが一変した。自分の写真が内なる部分で変化させられていくのを、グツグツと感じながら撮影していたのである。そしてこれほど撮影が楽しくワクワクすると感じたのも初めてだったのである。と言う事で「神が降りた」とまず感じたのは私の写真感に対してなのである。
そんな出会いのまなちゃんには、感謝の意を込めて To be splendid,more splendid.という英詩を贈りたい。語学堪能なまなちゃんに対して恥ずかしいが、これからの期待も込めて補足させてもらえばこんな感じである。“薔薇は、かつては、名もない野薔薇であっただろう”そして“華麗に花開いた。壮麗たらんとする、より壮麗たらんとする意志によって”と続けたい。

私は『阿部礼二』さんにはなりたくなかった。平均的なアベレージ男になってしまうことが子供の頃から大嫌いだった。天邪鬼と片付けてしまえばそれだけかもしれないが、天邪鬼にも美学みたいなものがあるはずである。“世間体”や“人並みに”って言葉に踊らされるのを嫌う性格は死ぬまで治りそうもないが、写真の世界では阿部礼二になりかけている危機感をどこかで感じていたのかもしれない。そんな時にまなちゃんと出会えたことは、撮影のパートナーを授かっただけでなく別の意味で「神が降りた」という感じだったと後になって思うのである。
女神(ミューズ)とはギリシャ神話に出てくるゼウスの娘で創作をつかさどり、音楽(ミュージック)の語源でもあるそうな。

その後、『素顔のままで』が始まるのだが、そんなに簡単に現役モデルとの個人撮影が始められるわけはない。まなちゃんが私の写真に何を感じ、どこを認めてくれたのか、私を快く受け入れてくれたことは非常に大きい。それまで私は個人撮影の意志を訴え続けていたわけではなく、機が熟すまでそれは切り出すまいと考えていたが、その想いは日々つのるばかりであった。言葉にせずとも顔に書いてあったのかもしれないが、まなちゃんが切り出してくれるのがあと僅か10秒遅ければ、確実に私が先に頭を下げていたことになる。て言うか、頭の中で言葉を捜していた時だったのである。しかし、先に言わせてしまったことは少々悔やまれる。ただ、これほどのタイミングの一致に神がかり的なものを感じないではいられなかったのである。

また、『素顔のままで』と銘打ったのにも深い意味があり、単にポートレートのモデルとして、まなちゃんがそれまでやって来たモデルスタイルをそのまんま継続してもらうのではないということだ。そのためには、そんな関係作りを義務感ではなく受け入れてもらいたかったのであるが、その相手としてとんでもなく上等な女性であった。それは、男と女という関係を超えた部分での信頼関係を指しているが、普通これは難しく、また継続させることは男と女であるからこそ意味深いことでなのである。何故ならば、写真の中で私は紛れもなく“女”としてまなちゃんを表現し続けているからである。私は実際にモデルとカメラマンという境を越えて、一番身近な女性にも口にしない事を、まなちゃんに話すこともあるし、これまでも、そしてこれからも大切な存在である。そうなれたのは何よりもまなちゃんがオープンな雰囲気を提供してくれたからだと思っている。それだからこそ“付かず離れず”これこそが『素顔のままで』ということなのだろう。


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