一本の木
円周率が3.14だったのを3に改めるような教育では学力が低下するなんてことを言っている馬鹿が多い。元々3.14でも正確じゃないのに、お前こそ思考力が低下しているんじゃないのか?って思うわけ。しかし、漢字がどんどん少なくなっていくのには一抹の淋しさを覚える。なんとも趣のある漢字が姿を消していくのは実用に影響が無いとしてもカタチじゃないものをどんどん失っていくような気がする。また、土曜日に学校を休みにすることに関しては、単に公務員が休みたいからって思惑が見えてくるから納得は出来ていないので、根本的にゆとり教育としてひとまとめにして欲しくない。おっと、別に教育論を述べようってわけではないが、幾何学なんてものは円周率の細かい数字を覚える事が重要なのではなく、その意味を理解した上で問題解決する、その経過が大事なだけなのである。
レンズの被写界深度の値とかを細かく覚えて自慢げにレクチャーする人を多く見かけるし知っているが、私に言わせれば暇人なオタクだということだ。あんなものは大体知っていればいいことで、設計者だけが気にすればよく、使う方は理屈さえ理解していれば充分なのである。それよりももっと頭を使わなければいけないことが山ほどあるのが撮影なのである。余計なことで大事な脳ミソを無駄使いする必要はない。
と、たまには毒を吐いておくと喜ぶ読者もいるのだから、こっちも大変だ。
巧い写真、しゃれた写真、誉め言葉にも色々あるだろう。だが、私は感じる写真を撮りたいと思っている。
写真家が写真家である以上、素人とは一線をかくす光る部分′セい換えれば私はこれだけ撮れる≠ニ力を誇示する部分も見せなければなるまい。しかし、ポートレートに関して言えば、モデルとのいい関係を築く力量も認めてもらいたいものであるが、これをテクニックや策略だと思われては心外であるし、愛するモデルに対して失礼である。
また、見る側としては、写真家の抱く写真観や創作の舞台裏を垣間見るのは興味深いことだと思うのである。撮る側も見る側も人それぞれであるから、撮り手が現実の体験を語り、告白しない限りわからないのである。
そして、ここではそれを400話以上に渡って書き続けて来たが、風景写真と大きく異なるのは、被写体が心のある生きた人間であるということだ。だから、あえてこの難問であるポートレートに関してだけに挑み続けているのである。
と同時に、これをモデルに読まれてしまう事を必然的に覚悟をして書く必要があるわけだ。また、私やモデルのプライベートで大事な相手の目に触れることだってあり得る。そう考えると難しくもありスリリングでもあるが、その分だけ書き甲斐もあるし意味も大きい。
最近の掲示板にレスで少し書いたのだが、一回の撮影を長い棒だとすれば、一枚の写真はその切り口を見せることだと思っている。もう少し深く書けば、棒というより一本の樹木かな。太い幹もあれば枝葉もあり、深く地中に埋まっていて見えない根っ子だってあるのだ。
私が考える撮影とは、カメラを持ち、モデルがポーズを取る前の色んなやり取りをも含めて一本の木であり、同じ根っ子からの養分で育っているのだから、その中のカットどれを取ってみても、同じ木の切り口を見ていることになるのである。言い換えれば、松の木に花が咲くような突飛なことをすることもないのだ。
不要な修飾語を極力廃して、まっすぐに対象と向かい合いたいと思っていつも撮影しているのだが、しらじらとした退屈感を抱かせるような相手が居ないとは言えない。そうなってしまったからって、モデルをマネキン扱いにしようと心に決めて、自分のテクニックのみを試すような撮り方は出来ない性分なので、その日の気分を見透かされてしまうような恐怖感と戦う事になる。とは言っても途中で投げ出すわけにはいかないので、根っ子にせっせと栄養を与える努力を惜しまない。選定バサミで枝振りだけで体裁を整えたって、メッキは剥げ落ちるもので、その場しのぎの技術で上回れるものではないと身を持って知っているからである。だから、πを3から3.14にしても無駄なのだ。
自分の力量を誇示することも必要だというのと同じく、その日のパートナーとのチームワークで完成するポートレートであるから、そのモデルの素晴らしさを見る側に伝えたいという思いは他のカメラマン以上に強いと思っている。しかし、細かくモデルに表情やポージングの注文を付けてそれを完璧にやり遂げる姿を撮るのではなく、だいたいイメージ内に収まっていればいいことで、そんなことより潜在能力の部分を気持ち良く引き出してあげたいと思ってしまう。そして、それは当然のことながらモデルの実力以外の何ものでもない。