でも、私はそこにいる
最近、貴重な出会いを体験し、とても興味深い話が聞けた。そのアミちゃんは絵画の世界に精通し、自ら描く事もあれば、肖像画のモデルも務めるという、なんとも魅力的な女性で、今の私にとって理解者であり大切な存在になっている。
私は同じ静止画の世界であっても、絵画と写真は大きく違うと思っていたのだが、その通りであると再認識したと同時に、とんだ認識不足を感じたのである。ポートレートと同じといえるかもしれない女性の肖像画を描くとき、画家はモデルを少しも動かさないで、その動かないままじっとしているモデルを見ながら描き写しているのだとばかり思っていた。言ってみれば坂本竜馬の時代の写真みたいなもので、モデルが動くことは絶対的なタブーだと思っていたのである。
しかし、決して絵画の世界を軽視していたわけじゃないが、そんな単純な世界ではなかった。画家によっては、一瞬の表情を脳裏に焼き付け、それをイメージしながら描き上げるのだそうだ。いままで、こんな描き方があるなんて思ってもみなかったし、それは絵画にこそ許された、なんともいえない素敵な世界である。
それを写真の世界でカタチにしようとすると、シャッターを切る瞬間には、もうそこにその瞬間の姿はないのだから物理的には不可能であっても、アミちゃんの語ったことを私の持っているものを総動員してイメージし、それを何らかの形で昇華させてみたいと感じずにはいられなかった。
そして彼女がモデルをする時のことを聞いてさらに驚き、そしてその姿を見てみたいと思った。それは、花が生けてあればそれを見ることもあり、雨が降り出せば窓の外を見ることもある。さらに、部屋の中を思いのままにふわふわ動くことだってあるという。そして彼女はこうも表現した。「じっとしていない。でも私はここにいる」
なんて意味深い言葉なんだろう。また、絵を勉強している学生達のモデルをする場合など、一人一人の視線を集中して浴びる時間帯が過ぎた後、それが一瞬の視線に変化すれば、構図が完成していると判断して、「ハーイ!私についてきてねー」って感じで、オーラだけを感じさせる空間にしてしまうというのである。
そして、アミちゃんが私にそんな言葉を発する時の穏やかでゆったりとした話し声がとても魅力的に感じられ、いつまでも聞いていたい気分に浸っていた。
しかし、絵画のモデルって誰もがそうなの?って疑問には、意識してないけど私流なのかなぁってこと。
きっと、そんなアミちゃんを初めて描いた若き画家たちは、私がまなちゃんとの初撮影で感じたものと近い印象を感じたのではないだろうか。
ある程度のレベルに達した腕前であれば、写真の上手い下手、そしていい写真とそうでもない写真はあるが、それは地上から夜空を見上げた時の星たちのようにそれほど差が無いように見える。しかし、現実は何万光年もの隔たりがあったりするのである。
同じモデルが同じように写っていて、同じような写真に見えたとしても、ひょっとしたら、何万光年もの開きが潜んでいるかも知れない。
その開きは、単純に技術的なこともあるだろうし、その一枚の写真に込められた想いかもしれない。技術的な問題については、新しい機材に導入されるメーカーの技術力やレンズなどの充実と熟練で着実に進歩しそうである。もちろん常に向上心を持ち続けるあることが条件だが。
しかし、後者の想いについては、どこかで何らかのきっかけを得れるか否かにかかっていると思うのである。単に写真が上手くなりたいと思っているだけではなんの糸口も見つけることは出来ない。
そのきっかけは、誰かが撮った一枚の写真かもしれないし、一人のモデルとの出会いかも知れない。また、一冊の小説や一本の映画かもしれない。そして友人や恋人から得られたりもしそうであるが、それだって、自分の作品に想いが込められるかは、心掛け次第であって、何気に通り過ぎてしまうか、発想を巡らせることができるかが決め手になるのである。
ずっーと昔のこと。「スター誕生」なるTV番組があったことをご存知の方も多いだろう。そこではアイドル歌手から実力重視の演歌歌手まで幅広く審査されていたと記憶している。歌の上手さの判断基準が極めていい加減で拙い私の耳には、とても上手く聞こえた演歌歌手志望の中学生に対し、審査員が放った言葉は、正確には覚えていないがこんな雰囲気のことだった。「とっても良いけど、この調子でレッスンを続けて歌詞の意味が解るようになってからもう一度聞かせてちょーだい」当時の私としてはプロでもここまで歌えない歌手がたくさんいるのに、どうして落とされるんだろう・・・ しかし、今になって思えば、解るような気がするのである。
音程が安定していて声が出ていることが上手いのなら、感情を持っていなくてもロボットやCGの歌手に歌わせればいいのである。