もったいないなぁ


風景カメラマンは、登山の経験に長けていると山岳写真では絶対に有利であろう。いくら、機材を多く揃え、高度な撮影技術を持ち得ていても、いい被写体に巡り会えなければなんの意味もない。折角の写真術も宝の持ち腐れとなってしまうのである。
これは、想像や何かをサンプルに描く事も可能な絵画との決定的な違いで、レンズの前に被写体が居なければ写真は成り立たないのである。また、お察しの通り登山に限定しているわけではないのは言うまでもない。いや、私の得意なたとえ話を先に展開しただけの事で、もう少しお付き合いを。

と言うわけで、最近写真を見る機会を持つたびに、写真を撮る技術が優れている事が写真家として優れているのか?と自然に疑問を感じてしまうのである。
視点を変えて、スポーツの世界であれば、そのジャンルの競技が上手ければそれに文句は言うまい。ひょっとしたら、基礎体力が人並みはずれていて、何をやっても、上手くこなせるようなケースもあるかもしれないが、いきなり一流になれるほど甘いものではなかろう。あのマイケル・ジョーダンだって、バスケでは神様であっても、メジャー・リーガーとしては成功できなかったように。
その基礎体力は写真のセンスとでもいえるのかもしれないな。その競技の技術は、写真のジャンルの技術に当たりそうだ。ポートレートと風景、他にもスポーツ写真や商品写真、建築写真なんかでも使う機材の性格も違うし、絞りやシャッター速度、ライティングなど、違って当然である。

このエッセィの読者をあまりイライラさせても仕方が無いので本題に入るが、女性のポートレートにおいて、「折角の素材を勿体無い撮り方してんじゃないよ」と思うことしきりな、最近の私なのである。
こんなつまらない表情で、よくシャッターを切る気になったもんだって感じることは日常茶飯事である。
百歩譲って、こんな表情を好む人も居るのかもしれない・・・と思い直すとしよう。しかし、ほんの少し脚や腕の角度を調節してやれば、スタイル良く写せたのにと思うことが余りにも多すぎる。このカメラマンはモデルをちゃんと見て撮っているのかい?それどころか悪意があるんじゃないの?って思えてしまうこともあったりする。
表情だって、引き出す気あんの?それを私とは正反対に邪魔臭いなんて思ってるカメラマンなんだろうな。

そこで、最近は写真をそれほど勉強していない人たちに、こんなことを試している。例えば、この写真でモデルの二の腕のムチムチ感は、こんな風にすれば完全に解消されてスッキリとスマートに見せることが出来るんだって説明してみるのである。そんな時の反応はほぼ100パーセントが「なるほど・・・そうか・・・」程度のものであり、言い換えればそのレベルの認識なのである。しかし、それはそのモデルのムチムチ感に気がついていないのではなく、すんなりと、「結構デブってるんやなぁ」というイメージを暗黙的に持ってしまうのである。それは、カメラマンとして、自分と同じ撮影の空気を共有したモデルに対して、可哀想過ぎる結果と言わざるを得ない。だから、オッパイだけを強調しておけばいいみたいな、いい加減に撮っている写真を見ると腹が立つし、そんな写真の連続を見せられると、つい悪意まで感じてしまうのである。

確かにライティングもグッドでピントもバッチリ、構図もヨサゲ。きっと機材だって高価なものを揃えての撮影なんだろう。しかし、女の子に対して、ちゃんと向き合って、大事に撮ってあげて欲しいのである。それは、たとえ女性を見る目がないカメラマンでも、やれば出来ることなのだから。
女性の表情の豊かさや、身体の美しさを見出せないのは、登山が苦手なのと
同じかもしれない。いや、それ以上に努力しても、見につくものではないものなんだろうな。
それにしても、そのモデルとのコミュニケーションにおいて、もっともっと感じる表情を見せてくれているはずなのに、それが撮影で少しも活かされてないなんて、いったいどういうことなんだろう。まさか、お目にかかれてないとか・・・
そこには留保もなく条件もない。そして、原因もなく説明もなく、「しかし」もなく「もし」もないのである。


<−戻る