流れることの大切さ


モデルの表情やポージングは流れを感じさせるものが好きだ。それは表面的な動きの流れだけではなく、受ける印象から感情の流れを感じさせるものも含まれるのは当然である。
だから、ファッション写真にありがちな作り笑いと、お決まりのポーズなんて私は興味ない。イイ女がモデルの時はその容姿に関心があるだけで、心の奥底から引き込まれるようなことはまず無い。

毎度クルマに関するたとえ話で恐縮だが、バッテリーから供給される電気でプラグにスパークを飛ばしオーディーオを鳴らして走るクルマだが、プラス電源だけが表舞台で活躍しているように思える。しかし、マイナス電流をスコーン!と通してやることで、快調にエンジンが回り、オーディオは抜けるような音質に変化する。オマケにヘッドライトは明るくなるわ、クラクションの音も気持ちよく響くようになるのである。もう、いい事だらけであるが、メーカーは目に見える部分にしかお金を掛けないから、このように目に見えない電気は、コストダウンのターゲットにされてしまうのだ。便秘はいけないんだよ、お肌にも悪いしね。
余談だが、マフラーのパイプにしっかりとアースをしてやることで、静電気を逃がし排気の流れを良くすることもあまり知られていない事実である。また、私はオーディオのアンプのボディー・アースは鉛筆ほどの太いケーブルを用意し、分厚い部位のボディー塗料を剥ぎ取ってしっかりとアースを取るようにしている。余談ついでに書くと、オーディオの配線をして、余ったコードを輪にしてたりする人は折り曲げて束ねるように。輪になったコードは磁場を作ってしまい、ノイズの発生源となるのだ。
入り口ばかりに気が行って、出口をおろそかにしてはいけない。要は流れを止めないことだ。ピッチャーの投球フォームやバッティングにしたって、腕やバットを振り抜くフォロースルーが大事である。

話を元に戻すと、ワンポーズ・ワンポーズでストップして、シャッターを切られるのを待つのがモデルたちの大体の姿である。しかし、そこにはいい感じのポーズが完成した時点で“静止”するという意識がどうしても出てしまうものだ。それは、どんなに巧いモデルでもいかんともし難い事実であるが、そのポーズと表情が完成されていて魅力的だからヨシとされている。
そこで、ひとつのきっかけ作りとして、カメラマンが同じ位置で撮るのをやめ、ズームレンズ愛好者は単焦点レンズに持ち替えていただきたい。そして、カメラマンが寄ったり離れたり、正面だけでなく回りこんでもいいだろう。こうやって動くことによって、普通の神経を持ち合わせているモデルなら心の動きが必ずあるはずだ。
感情の起伏とは波形であるとも言えるので、当然I軸とy軸が存在し、縦、横、奥行の三次元の世界に時間の経過が加わり四次元の空間をもたらしてくれるのである。

その心の動きは表情に大きく表れてくるもので、特に目元に違いが出てくる。表面的には気付きにくいが、瞳孔も大きくなっていることだろう。これは出来上がった写真では誰もが見過ごしてしまうことだが、それは単なる「見ため」の問題だけで片付けられないものなのだ。 同じ人物の顔のアップを二枚用意し、一枚は瞳孔が大きく開いた状態だとすると、見る側の多くはその瞳孔が開いた写真に惹きつけられたという実験結果が報告されている。私は、瞳孔まで写るぐらい露出をオーバーにしろという意味ではない。それぐらいの気持ちの揺れを作れってことだ。瞳が黒い日本人は、なかなか瞳孔を確認できるような写真は撮れないものだ。

一方ポーズに目を向けると、動きと言うものは「坊さんが屁をこいだ」ごっこじゃないのだから、最終地点というものは普通存在しないのは誰もが理解のできるところ。一連の流れの中のひとコマが静止画である写真である。その静止画であることに、あえて“甘え”と表現させてもらうが、切り取るのではなく、撮りやすいところを写させてもらっただけになっている。
鉄道写真の分野では現役で走っている列車を追いかけて、力強く、そして優雅に走る姿を重い機材を担いで現地に行って撮ってこそ価値があるもの。血の通わない機械でさえそうなのに、マネキンを撮っているようなのは根本的におかしい。
だからと言って、スポーツ写真のようなモノを高速シャッターで撮れと言っているのではない。よく出来たマネキン人形写真を生産するなと言っているのである。
写真を観る側がストーリーを連想したり、心が動くような写真が結局は記憶に残る写真なんだと思うのである。


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