第三のポイント
写真って、なんかお手軽になりすぎたのかもしれない。私が小学生の頃は一眼レフが使えることだけで自慢できた時代であった。
それがどんどん進化して今のカメラがあるのだが、AE、AFが出て、多分割測光に多点測距と発展していったわけだ。途中、視線入力なんてギミック的な寄り道をしながら。
ちょうどその頃に私はポーレートの腕を磨いた。その裏ではデジカメがあったが、一眼レフのデジタルはまだ特殊であり、銀塩のレベルには600万画素以上必要だといわれていたように記憶している。一眼レフの撮像素子の大きさで600万画素なんて遠い未来だろうと思っていたら、そこに到達して追い越す加速度たるや凄まじいものがあった。
本当にあっという間の出来事で、今では2000万画素オーバーも珍しくなくなっているのだから、銀塩で撮っている人はかなり少数になってしまった。
シャッターを押せばとりあえず写り、それもモニターで確認できるのであるから、誰もがほぼ失敗なく写真が撮れる時代になっている。しかし、撮影技術が底上げされたとは思っていないのである。
最近では、WBCが人気であるが、イチローが打席に立ってバットをセンターに向けてかざした途端、スタンドはストロボの光で満ちる。数十メートル離れた距離で小さなストロボを焚くことにどういう意図があるのか知らないが、無知からくる行動であることは確かである。
カメラ大国である日本でさえこれなのだから、オリンピックの開会式なんてとんでもないことになるが、逆にキレイなイルミネーションとなって臨場感を高めている。
カメラを向けてシャッターを押すだけでなく、多少間違った操作をしても完全な失敗にならない写真を作ってくれる機械を開発しているメーカーもたいしたものである。
そういう努力が実を結んで、写真人口が増えたのは明らかである。失敗が殆どないないことで、写真は難しいのイメージを払拭したわけだ。写ルンですで銀塩の広いラチチュードに助けられて写真は簡単だと思っていたユーザーがコンデジに移行し、その多くが一眼レフにステップアップしているのだろう。もちろん銀塩一眼ユーザーの大多数がデジタルへの移行が終わったようである。私のような頑固者でも殆どD300で撮っているのだから。
誰もがそこそこの写真をカメラが撮らせてくれるこの時代に、上手いと言われる写真を撮ろうと思えば、方法は3通りある。ひとつはスキルアップでもうひとつはいい機材の導入だが、もちろん両方やれれば言うことなしだ。そしてもうひとつは執念にも似たこだわりであろう。この3つ目がかなり大きくて、小手先では真似できない写真を撮れる大きな要因になっている。
最高のロケ地を探して地道にロケハンするのもそうだろうし、最高の光になるまで待つ我慢強さもそう。そして、最高のモデルを口説き、信頼を得るまでは、相手が人間だけに写真への拘りだけでは足らない。
最高のシチュエーションとモデルを前にして、やっといい機材を駆使した技術の見せ所となるわけで、つまらない被写体であれば、出来上がった写真もたかが知れている。
つまらない被写体だと他人がそう思っていても、本人が惚れ込んでいれば、それは最高の被写体となる。
モデルであれば、ルックスはもちろんのこと、相性ってのがかなり大きい。いくら美形でスタイルがよくたって、もう二度と撮りたくないと思ってしまうようなモデルもいれば、その逆もある。撮っててトキメキと楽しさに満たされる撮影ほど充実して結果も残せる撮影はない。