感情のある被写体、そして悲哀
ポートレートと言えば、キレイな女性をモデルに撮ることだとイメージされる人がほとんどであろう。しかし、そんな撮影なんて一眼レフを買ったからと言って、誰もが出来るはずはない。
まず、なかなかチャンスがない。それで、撮影会のお世話になるが、最初はそれでいいと思うのである。
風景や鉄道を撮っていて、写真が上手いと自他共に認める腕であっても、いきなり女の子撮ろうと思ってもそう簡単にいくもんじゃない。
モデルの女の子がいたとしても、露出や構図、そしてレンズワークがポートレート独自の部分が結構あるわけだ。
最近は雑誌などで、ポートレートの特集記事が多いので、マニュアル的に頭に入れておき、賢いカメラにある程度任せておけば、大きな失敗も無く撮れることだろう。
ポートレートと対極の露出になると思われる鉄道写真を極めている人も、自分なりのノウハウの蓄積があるはずで、ハウツー本に載っていない部分があるはずなのだ。風景写真も同じで、もちろんポートレートも同じなのである。
そうなると、せっかくモデルを引き受けてくれた女の子を撮るにあたり、そのノウハウ部分がそこそこ自分の中で整った状態で撮ってあげたいと思うのが普通ではないだろうか。
「そんなこと、どうでもいいから早く撮らせろ」って思うようなカメラマンは感情の無いモノを撮ることをオススメする。
最初は少々失敗しても許されるような気兼ねないモデルからはじめ、徐々にレベルアップして、最終的にいい写真を撮ってあげられるようになっていけるのが良いのではないだろうか。その間、いろんな撮影会でいろんなタイプのモデルを撮るのもいい経験になる。色白で清楚なモデルと、小麦色の活発なモデルでは、同じ撮り方にならないのは当然のことであり、その辺りのモデル選びと撮影ノウハウの蓄積は撮影会が一番である。
個人撮影となれば、撮影以外に考えることや事前の準備が必要だし、当日も色々することがある。
それに気をとられていると、撮影に集中できないので、撮る行為だけについては勝手に体が反応するぐらいになっておきたいものである。それを養うためには撮影のみに集中できる撮影会が案外有効なのである。
風景に比べて、露出がシビアなのがポートレートである。肌の色ほど不自然さが気になるものはない。露出のミスだけでなく、色かぶりも致命的である。それは撮っている時はほとんど気付かないが、写真となって仕上がると酷いありさまになっていることがよくあるものだ。その辺は経験がものを言う世界かもしれないが、最近はレタッチで救えるようになって、ボツ写真を復活させることが出来るからありがたいことである。
私のように、自然の中で撮ることが多いと、厄介な緑がシャドウ部分に乗っかることがある。この緑ってやつは肌のピンクを殺してしまうので、下手すりゃゾンビのような顔色になってしまうのである。
話は変わって、ニュースで誰もが知っている佐用町にひまわりを見に行った。ゲリラ豪雨が降る前日のことである。あんなにいい天気であんなにせせらぎが気持ちよかった川が、あの村を飲み込んでしまったわけだ。それにあの村の人たちはいい人だったので、余計に可哀相なのである。ひまわり畑で村興しをしているが、そういう場所って村人が臨時駐車場でぼったくるイメージがあった。しかし、佐用町のひまわり畑は駐車場が無料で100円だけ寄付して欲しいと言うつつましさに感動したばっかりであったのだ。
あんな素朴ないい人たちをなぜ苦しめるのだ?って思えて仕方が無い。
写真の川は、ひまわり畑の横を流れていた川を、たまたま撮ったいちまいであるが、翌日は魔物と化してしまうのである。
とにかく、もはや日本は穏やかな四季を楽しむ国ではなくなったのだ。熱帯雨林に降るスコールのような雨がどこを襲ってもおかしくない状況になっていると覚悟しなければならないようだ。
私の自宅もすぐ横に川が流れているので、まったく人事ではないのである。最近はその川の橋の下にホームレスが住みだしたので、彼のことも気になってしまうのである。
原因とされる地球温暖化も、私もガソリンを撒き散らしている中の一人であることで複雑な気分である。