便利すぎる世の中
先日は唯一の休みが日曜で、朝から出掛けようと準備をしていたところ、携帯に着信を発見。遊びに行く相手からだと思ったら、仕事関係で急な不幸があり夕方からお通夜があるとの連絡。それも、またかなりの遠方まで行かなければならないので、日曜の予定はすべてキャンセルとなった。
しかし、夕方まで中途半端に時間が空いてしまったので、仕方なくDVDを1本鑑賞することにした。
18時からのお通夜ではあるが、遠いので明るいうちに出発である。西に向かって山陽道を突っ走ることになるが、ちょうど西日を真正面からまともに浴びて、前方の標識がまったく見えない状況である。ナビがなければ自分がどのへんを走っているのかさえ分からないし、降り口を通り越してしまっていたことだろう。
それにしても、ナビとの付き合いもかれこれ20年近くになって、便利さに慣れきっている。もう何台目になるだろう、どこへ行くにもこれがあればまったく迷うことが無い。
郊外をドライブしていて、ロケ地の候補を見つけてもナビにマーキングしておけばいいから、こんな便利なものが無いカーライフは今では考えられなくなっている。
カメラにAEやAFの機能が付いたのとは違った意味の便利さで、カメラがオイシイ被写体を探してくれるようなものである。勝手に野鳥の鳴き声を聞き分けて、ファインダーにもっと上、もっと右と表示が出て教えてくれる感じだろうか。
ポートレートでは笑顔を察知してシャッターが切れるという、ナビにも匹敵するハイテク機能があるが、あれは素人のスナップ写真でしか使えない機能であり、微妙なところである。口角を上げて笑うだけが、いい表情ではないことぐらい、カメラメーカーの技術者も分かっているが、心に響くような表情には定義が無いからどうしようもなくて、手がつけられないのだろう。逆に有名なカメラマンのデータをもとに表情やポージング、フレーミングなどをインプットされても迷惑な話である。ナビに頼って道を覚えられなくなった私だが、高機能すぎるカメラで自分の感性の邪魔をされたらたまったものじゃない。
そこまで機械がやってしまったら、写真で飯を食っている人間は今以上にしんどくなってくる。
なんでも、ハイブリッド車が静か過ぎて、老人や障害者が気付きにくいとかで、無理やりスピーカーで音を出しながら走らなければならないようになるかもしれないらしい。それを考えると、私のクルマは多少うるさくても安全だということである。
世の中、何が便利なのか分からなくなってきた。
危険といえば田舎の道では、老人が原付バイクで悠々と走っていて、進路を塞がれることが多い。フラフラするので端に寄ることが出来ないだけなのだが、自分が迷惑をかけている事に自覚はなさそうである。
老人じゃなくても、右折するのにセンターラインを跨ぐぐらいに右に寄ればいいのに、ウインカーを出しながら、対向車が途絶えるをを延々と待っているクルマが多すぎる。自分の後ろに延々と渋滞が出来ていることに気付いているのに無視しているのか、必死でそれどころではないのかのどちらかだろう。あと50p右に寄ればいいだけのことが、どうして出来ないのだろう。
回りが見えていないドライバーが多いのが最近どうも気になるが、確実に自分のことだけで必死なヤツが多すぎる。
話の方向性がそれたが、便利になって欲しい分野と、そこは残しておいて欲しい分野があると思うのだ。私はカメラが身近にあるので、カメラの話題となるが、オーディオが趣味の人にもきっと同じような戸惑いがあるのではないだろうか。
最近、SONYのCMで矢沢永吉を見る機会が増えている。あの人はいつからTVが好きになったのだろう。まぁ、そんなことはどうでもいいが、自分の好みを登録することで、勝手にTVが録画をしてくれるらしい。それは本当に便利な機能なんだろうか・・・?
電気製品で最近話題なのが、たむけんがSANYOの炊飯器をラジオで絶賛し表彰されたとか。10万円以上する炊飯器らしいが、これは欲しいと思ってしまった。
美味い米があれば満足な私だが、これ以上米が美味いと感じてしまうとヤバイかもしれない。