銀塩離れが出来ていない
過去の銀塩時代の写真を見ていると、同じ写真としての観点で公平にD300で撮った写真と比べ、銀塩での大撮影分の方が明らかに表現力が上であったと思われる。あくまでも表現力であり、写真のきっちり感はD300があるのは当然だ。
リバーサルで撮るのは大変であったが、銀塩かデジタル、そしてキヤノンとニコンの違いとかではない。それを単純にフルサイズとAPS−Cの違いと断定したくはないが、そうかもしれないところが多い。
同じディスプレイ上のデジタル画像で比較しての話である。私はポートレートのレタッチはほとんど行わないので、家庭用のフィルムスキャナーで作成した銀塩時代の画像の方が、D300で撮ったものより不利なはずなのにである。
特に、フィルムスキャナーの場合はハイライトは飛んでしまいがちだし、シャドウ部分はノイズが乗ってしまうので、自然とそのようなハイキーまたはローキーな撮影を避けていた。また露出をミスした場合も、救済は困難であった。
銀塩を超えられない理由として、キヤノンの単レンズのレベルにはまだまだニコンでは揃えられていないのは事実で、信頼し自信を持って使える単レンズがないことは決定的である。
ズームの性能が飛躍的に向上したとしても、私のスタイルではないから、単レンズの信頼できるものを使う必要がありそうだ。
そのハンデを今はAF-S 24-70mm F2.8G EDでカバーしているが、どうもしっくりいっていない。
50mmF1.4を中心として、45mmのシフトレンズと28mmのF1.8、それと85mmF1.8と1.2。これを駆使してほとんどのカットを撮っていたスタイルが一番あっていたようである。結局はフルサイズの感覚との違和感なのか。
基本的にポートレートに関しては透明感を好む私だが、最近のカメラマンはどんどんコッテリ傾向に拍車がかかっているようだ。確かにインパクトは抜群であるが、皮膚呼吸感覚はゼロに近いと私は思うが、一般大衆でそこまで考える人はほんの僅かであると思われる。
デジタル時代の副産物であったものが、これからの主流になりつつあるようだ。これでいいのか?って私ごときが叫んでも、このデジタル世代の大きな流れは止めようがないだろう。
画像のデジタル処理は一度それをやってしまうと、レタッチせずにはいられなくなり、撮ったままでは物足りなくなってしまうものである。色の彩度を上げたりハイパスっぽいシャープネスをかけたりは麻薬のようなものであり、よっぽどのことがなければ離れられなくなってまうのだろう。また、ノイズリダクションやレイヤーで肌をスベスベにしているのも良く見かける。
やりすぎて、肌を蝋人形のようにヌメヌメにしてしまうのも私は理解できないが、それがまた流行りつつあるが、「真似しちゃダメだよ もうこっちに戻って来れなくなるよ」って言いたいぐらいである。
皮膚が薄く感じるように撮りたい私だが、最近はハリウッドの特殊メイクのような分厚い肌に仕上げてしまうレタッチを良く目にしてしまう。そんな女の子に頬ずりしたくなるような愛おしさを感じないだろう?
絵画の場合、私は完全に素人であるが、油絵などどこで止めればいいのか分からなくならないのだろうか?と思うときがある。どんどん色を重ねていけるように私には見えてしまうが、それと同じ感覚にフォトレタッチソフトの画面上で陥っているのではないか。
銀塩の頃は、ポジの見た目に限りなく近づけるために、Photoshopを駆使していたが、それ以上はやらなかったというか、ポジを完璧に再現することさえ結局出来なかった。フィルムの相性もけっこうあって、フジとコダックを使い分けていたが、コダックのエクタクロームが一番楽だった。
デジタルカメラになってからは、RAWデータがポジのようなものであり、そこから先の領域は写真を弄る行為となる。
その弄るも二通りあって、多少の微調整で見栄えをよくするナチュラルメイクと、コッテリな厚化粧がある。
銀塩では終着点であった段階が、デジタルではそこを超えた段階からスタートなのだから、創り込んだ画像に酔いしれてエスカレートしないようにしたいものである。あくまでも写真であってデジタルアートではないのだから。
そんなことを言っている私だが、まなちゃんに出会っていなければ作風がまったく違うところに行っていた可能性もある。
感性に訴えかけてくるモデルだと、どうしても絵の一部にしてしまうことが出来ないのは確かである。それでも充分の存在感を発揮してくれるはずだが、どうしても単レンズで寄って行ってしまうのだ。逆に、何の感情も湧かないモデルを相手にした方が、自由な発想で写真を創り込めるのかもしれない。
しかし、個人撮影しているモデルはお気に入りなもんで、素材として扱うことは今後もないであろう。