色んなモノを自由に撮れ
写真を撮っている人の中には、被写体が決まっている人も多いように思えるのである。
まあ、写真をはじめる動機の問題でもあるのだが、私が子供の頃はSLが好きだから写真を撮ると
いう友達が多かった。当時の写真部にはそんな連中の溜まり場的な部分も多い中、私はいろいろな
ジャンルの写真を暗室で現像していたが、あまり情報交換をすることはなかった。
私は暗室が使いたいがために写真部に籍を置いていたようなものであった。
しかし、最近のCAPAなどの写真雑誌のフォトコンを見ると高校生や中学生の写真部の思われる
人たちの入選作品が目立つ。活気があって実に羨ましい限りである。私が学生時代にそのような部
に所属していたら今とは違っていたかもしれない。
ただ、気になることが一点、どう見てもフォトコンで審査員に受けようとしているのが見え見えな
のである。フォトコンで入賞すれば励みになるし、楽しいであろうが、好きなモノを自分の感性の
赴くままに撮って行く時期ではないのだろうか・・・?
私には学校対抗で入賞者の数を競っているようにしか見えない。
そう考えると、無駄なことに熱中している愚かな若者達に見えてきた。私たちの頃の方がよっぽど
良かったのかもしれない。
中学生の頃から、ニコノスで水中写真を撮っていた私は奇妙な存在に見えたかもしれない。
もともと、父親にもらったカメラで写真を撮り出し、スキューバダイビングのクラブを持つ父親の
影響であるが。
50mmレンズ一本で国道を走り抜けるクルマを撮っていたのも今考えると流し撮りをちゃんとし
ていたのである、当時写真雑誌など読んだこともなく、クルマの雑誌を穴のあくほど見ていた私は
そこに載っているクルマの写真が頭に焼き付いていたのだが、そのイメージで撮ると自然に流し撮
りになっていただけである。
スーパーカーブームでにわかカメラ小僧になっていたやつとは、根本的に違うのである。
交換レンズなんて、自分にはまったく違う世界の話だと思っていた少年期の私は、50mm一本で
すべてを撮ってきたし、不自由も感じなかった。今は便利な世の中になったものだが、暗い標準ズ
ームのセットが、必ずしもいいとは私は思っていない。
一本しかレンズを持っていないのだから、高いところのモノを撮る時は木に登り、犬に近づき過ぎ
ては吠えられ・・・
でも、これって写真の基本ではないか。
被写体に食らいついて行く姿勢よりも、見栄えやウケにばかり神経が行っている。もっと自分が撮
りたいモノを素直に撮れないものかと思うのである。
そう言う反面、好きなモノしか撮らないってのも考え物である。それは写真が好きなのではないん
だと思う。おねーちゃんばっかり撮っている人は、おねーちゃんが好きなだけで写真を楽しんでい
るのであろうか?そんな人の写真は実につまらん。一人よがりのニコパチ写真を大量生産しても仕
方がないのである。これは一種の“オタク”と言えるのではないか。
ここのJoe’s galleryで私はおねーちゃんの写真しか展示していないのだが、おねー
ちゃんばかり撮っているわけではないのだ。
最近は、ポートレートやヌードを撮ることが多いが、風景とかを撮っていた時期の方が永いのであ
る。そして、私の写真のスタイルはポートレートも含めて、この時期に確立されたのである。
だから、被写体の回りをぐるぐる回り、最高に美人であり男前に見えるポジションを見つける撮り
方はすべての写真について共通のプロセスとなっている。
また、神戸の地震の時はちょうど三宮にいたこともあり、完璧に直撃を食らってしまったのだが、
被災者側から見た「神戸の頑張っている人たち」のシリーズは今でもずっと撮り続けている。
一度、ラッキーなことに知り合いが非難していた小学校に皇太子殿下と雅子妃殿下が来られた時は
目の前でカメラに収めることが出来た。雅子様に関しては日本中追っかけても、なかなか撮れるも
のではないが、あの時は特別で手を伸ばせば触れられるほどであった。
最近マスコミで震災後の神戸を取り上げることはほとんど無くなったが、まだまだ悲惨な状況は続
いているのである。
写真を撮り出したのは、神戸新聞の記者より早かったし、今でも撮り続けている。決して興味本位
ではなく、頑張っている人の姿を追い続けているのである。これは実際に被災した私と他府県から
やってきたカメラマンとは絶対に違うカメラ・アイがある。
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