静止画が語るもの
98年の暮れも押し迫った頃、まなちゃんと京都に行き、写真も撮ったわけだが、撮影が目的とい
うものでもなかった。ある目的で行ったのであるが、その時は撮影するために事前に打ち合わせを
したわけでもなければ、コースやロケーションを考えていたのでもない。第一私は自慢ではないが、
京都の地理には疎く、絶好の撮影場所など知る由も無い。まなちゃんの方がよっぽど詳しかったわ
けだ。
だから、この京都での撮影はせっかく出かけたし、まなちゃんには珍しい白いダッフルコートにジ
ーンズというラフでもあり、可愛くもあるファッションであったということと、12月の下旬とは
思えない暖かい陽気もあって、カメラを持ってでたのである。
だから、撮影のためにレフを当てたりもしなかったのだ。
まなちゃんの表情も、今までの撮影分とは少し違っていたかもしれない。と言うか、より自然ない
つものまなちゃんの顔なのであろうか。
日頃、そんな表情を目にしている私は、特に気に留めていなかったのだが、『素顔のままで』の写
真だけでまなちゃんを知る方たちから見れば、新しい発見があったのかもしれない。
実際に、この『素顔のままで』を気に入ってくれて熱心に見られている方から、私たち二人に対し
てメールを頂くこととなり、こっちもそれで気付かせてもらったのである。その方も、どこがどう
違うとは具体的に表現できずにいたが、想いは充分に伝わってきた。
その内容は、他の人に先入観を持たれてしまうことになり、その見る側がどう思われるかはその人
の感性であるので、特に書くことはしない。
まなちゃんと私としては、ただ写真が奇麗であるとか、可愛いとかではない部分で何か伝える事が
出来たということが、嬉しいのである。
単に奇麗な写真を撮りたいと言うのなら、他にいくらでも奇麗な写真をアップしているサイトは山
のようにあるわけで、またそれは撮ろうとして撮れるものだと思っている。
過去の撮影雑記を読まれている方はご存知かと思うが、以前私はまなちゃんと出会って、ある壁が
超えられるような予感を持ったと書いた記憶がある。その実態は具体的に分からなかったし、今で
もはっきりと見えているわけではないが、何となく、おぼろげに見えかけたかな?という感じでも
ある。しかし、その壁に今よじ登ったのか、壁に爪を立ててもがいているのかは分からない。
でも、トンネルを掘って向こう側に出てしまうようなことには、ならなかったと思うのである。
想うに私の撮影スタイルは、遅かれ早かれこの壁にぶち当たるものであると感じており、まったく
違うルートを進んでいるカメランマンは私とは違う壁がきっとあることだと思うのである。
そのどれにも遭遇しないようであれば、その人は天才か何の進歩も無い人だね。
私はまなちゃんというモデルによって、それが出来ているのだと感じているのだ。
それは私が一方的にその対象として、まなちゃんを都合よく無理矢理作り上げているのではなく、
まなちゃんもそれが分かっていて、応えてることが出来るモデルであると私は見ているのだが・・・
どうかな? まなちゃん。
ここまで読んで、「何を言いたいのかさっぱりわからん」という意見も多いであろう。しかし、分
かってくれる方がいるから、こうやって書く気になったのである。
だからと言って、それを分かれとはぜんぜん思わないし、押し付ける気もさらさらないのだ。
そのメールをくれた方とも、意見が一致したことであるが、これだけ巷にビデオなどの動画が溢れ
ているのに、動かず、何もしゃべらない古典的な静止画の写真を何故人間は捨て切れずにいるのか。
この問題提起は私にとって非常に興味深いものであった。
これについて改めて考えてみるのも面白いと思うし、もしかしたら何かが見えてくるかもしれない。