なんでポートレートなん?


なんだかんだ言っても、私は女の子が好きなんだろうね。以前は風景写真を撮るために寒空の中、
精力的に動き回ったものだ。滝壷の氷柱を撮るために六甲山頂付近から、アイゼンも着けずに重い
機材を担いでバリバリに凍った級勾配を下ったこともあったし、雪が降った朝は雪化粧した梅の花
を撮りに行ったりもした。正月は工場の排煙が減るので、夕方から完全に日が暮れるまで海辺で夕
焼けを撮ったものだ。

その頃にもポートレートは撮っていたが、いつのまにか逆転して最近はポートレートオンリーにな
ってしまったようだ。
そうなってしまったことを反省しているわけではまったくないし、それどころか現在撮っている写
真は撮りたいから撮っているのであり、それが一番であると思っている。

だからといってポートレート撮影に方向転換し、写真自体が変わったかといえば、決してそんな事
はないのだ。根底に流れるものは同じでありそれは小学生の頃撮ったモノクロ写真を今見ても、や
っぱり、オレの写真だ!って思わせる。当然子供の頃はポートレートなんぞ撮ったことも無かった。
あの頃はクルマの写真を撮ることに夢中だったと記憶している。自転車に乗って被写体を探してい
た頃を思い出した。それはスーパーカーなんかじゃなくても良く、道端に停まっているクルマや、
国道を突っ走るクルマたちであった。
今考えてみると、本当にいい被写体を見つけたものだと思う。クルマというのはその時代の最先端
のデザインであり、モデル料はいらないわ、向こうからやってくるわで、子供にとって最高の条件
だったわけである。

そして今は、まなちゃんを撮っているが基本的には何も変わっていないのだ。撮りたいものを撮る
ということなのだから。

ところで、おねーちゃんが撮りたいから、写真をはじめた方も多いだろうが、いいの撮れてます?
撮らせろって感じでカメラを構えても、駄目だと思うよ。
一度風景でもじっくり撮ってみた方がいいね、頭を冷やすためにも。
風景は「撮らせろっ!」って叫んでも冷たく嘲笑うだけなのだ。自分で撮りたいものを見つけて、
それの一番いい所を探しまくらなければ、いけないわけだ。
そう、撮り手が感性を総動員して、被写体の輝いている瞬間を探してやらなければならないのであ
って、奇麗だと思ってもちょっと待った!ってことになるわけ。

私も、ポートレートを撮り出す前は、奇麗なおねーちゃんを撮るのだから、いい写真が撮れて当然
であると思っていた部分があったかもしれない。しかし、撮り出してみると、こりゃ奥が深いで!
ってことになったのだ。
ここで、難しいやネって、やめてしまうってこともあるだろうが、いつのまにかこんなに撮ってし
まった。まぁ難しいとかそんなこと思いもせずに嬉々として撮ってる人もいるが、そんな人たちと
は、どこか向いてるベクトルが違うんだから、完全に無視なのだ。
人物は風景と違って、人間同士のもので、比率がカメラマン側にあるかモデル側が主導権を握って
いるかの違いこそあれ、共同作品であると思うのだ。
風景だってそうだと言えるかもしれないが、私は違う部分が大きいと考えている。

それは、同じ日に同じモデルを二人のカメラマンが同じ機材を使って同じ位置から同じアングルで
撮ったとしよう。当然絞りもシャッター速度も同じイコール条件で。
風景であれば、ほぼ見分けがつかない写真になっているだろう。しかし、ポートレートの場合は、
まったく違う写真になることが考えられるのだ。
カメラマンによって、シャッターを押すタイミングが違うし、気に入った表情も違う。風景と違っ
てコミュニケーションが取れるのだから、カメラマンの個性が絶対に出る。また、そのカメラマン
とモデルの間に何か通じ合うものがあったりすれば、表情も大きく変わってくることだろう。
どんなロウ人形のようなモデルでも感情の動きってあるはずなのだ。風景とちがってね。
その面白さを知ってしまったら、ちょっとやそっとじゃ抜けられないね。

断っておくが、私は風景写真より、ポートレートの方が偉いと言っているわけではない。この説の
まったく逆の風景写真のここがたまらん!ってのもあるんだが、またの機会ということで。
そんでもって、今までJoe's Galleryではポートレートだけでやってきたが、風景写真
も少しずつ公開していくことにすっかぁ。

<−戻る