撮影会写真を否定できるか


友人の画伯様こと磯村氏のリニューアルされたHPであるK's Photo Museumで今展
開されている対談で、撮影会で撮ったポートレートについての話題が出ていた。
それを読んでいて私も加わってみたい気がしたが、そうもいかないので、独り言でもつぶやいてみ
るとするか。

その対談では撮影会写真の肯定派と否定派に分かれて、議論がされていたのだが、私は真っ向から
撮影会での写真を否定することには賛成ではない。また、その撮影会で撮った写真を「作品」とし
て評価するに値しないという意見には、反対派である。

今の私には個人的に撮影できるモデルが複数いるが、それを自慢げに掲げて撮影会を否定する気は
毛頭ないし、そこで撮影した写真に対しても、良いものはいいと思うのである。
確かに、まなちゃんとの『素顔のままで』では私がプランを考えてロケーションも決め、彼女と相
談して撮影している。時には彼女の提案でロケーションを決めることだってある。
それに一番肝心なモデルも私が気に入ったまなちゃんを起用している。
個人撮影がしたいから、まなちゃんをモデルにしているわけではなく、お互いじっくり撮影がした
いから今のようなスタイルになったのであり、二人の共同作品の感が強い。

それに対して、撮影会ではモデルもロケーションも主催者に委ねられており「面倒なことはお金で
済ませたお気楽な撮影」なのかもしれない。
だからと言って、私は面倒なことをしているとは、これっぽっちも感じたことはないし、多くの人
は出来ることなら実際の撮影より上流の部分から自分でやってみたいと考えているのではないかと
思うのである。その主役たるのモデルの女の子を見つける段階で足踏みしているだけではないか。

ポートレートにおいて一番のネックがモデルの確保であることは、誰しも認めることであり、それ
が出来れば半分以上成功したようなものだ。
それがそう簡単に出来ないから、撮影会に人が集まるわけだが、風景写真においても同じようなこ
とが言える。
例えば奥日光の小田代ヶ原に立つ一本の白樺に一筋の朝日が射す瞬間を捕らえるためには、何年も
通いつめてモノにする努力が必要である。それは気に入ったモデルを口説き落として、個人撮影に
持ち込むようなものかもしれない。それに対して、神戸のルミナリエなんかはたいした努力も必要
としない。でも、しっかりとした作品は残せるはずである。

このルミナリエだって撮影会と同じようなモノで、主催者がデザインして設置した電飾を撮影する
わけだが、撮り手の感性でいくらでも表現の仕方はあるはずなのだ。
ポートレートに対してだけ、撮影会というものが多く存在するからか、そこまで言わなくても…
って感じることが多い。
撮影会でも自分でレンズやフィルムなどを考えて選び、絞りや補正値に悩んだ結果、作品と言える
写真を撮っている人は多い。それを認めてあげる心の広さは持っていたいと思うのだ。
個人的にモデルを確保していても、撮影自体いい加減な人だっているだろう。それは単におねーち
ゃんと遊んでいるに過ぎないし、その方が私としては気に入らない。増してや下心なんぞ抱いてい
ようものなら、とんでもないことだ。

念願かなって個人撮影をOKしてもらった女の子がいても、そこでいい写真を一発目から撮ってあ
げることは、後に繋げる意味でも大事なことである。
それまで、いくら他のジャンルの撮影経験が豊富でも、必ず上手く行くとは言いがたい。ポートレ
ートはそんなに簡単ではないのである。そこで撮影会である程度練習することは大事で、自分のパ
ターンを作ることも必要であると思うのだ。

個人撮影となれば、ロケーションと光の選び方や作り方、ポージングや撮影イメージの伝え方には
じまり、モデルの女の子への気遣いなどで、撮影に没頭するわけにはいかないのが現実であって、
自分のパターンの確立が出来ているといないのでは、一番避けたいモタモタ状態に陥る危険性がか
なり違ってくる。
その練習を個人撮影でやられたら、よっぽど仲良しの女の子でもない限りたまったものではないし、
それはモデルに対しての礼儀がなってないってものだ。

確かに、撮影会ではサインをねだったり、モデルの女の子と話をすることが楽しみであるような人
も多く見かけるし、アイドルの追っかけのようにしか見えないような人がいることも確かだ。
また、そんな写真を押し付けがましく見せたがり、自慢するようなタイプもいて、そんな撮影会カ
メラマンについては認めたくない。
そんな連中には、ポートレートを極めたような気分の勘違い野郎が混じっていることがあるが、彼
らにだけは、撮影会だけですべて分かった気になってほしくない。

<−戻る