ポートレートにおけるひとつのカタチ
シリーズでまなちゃんを撮っているが、同じモデルを撮り続けることは、私にとっては色々意味の
有ることである。
一度きりで終わるような撮影でモデルを変えていれば、どんな撮り方をしても新鮮であるわけだ。
それは撮る方も撮られるモデルも観る側にしても。
しかし、同じカメラマンとモデルのコンビでそれを続けるとなると、お互い工夫がなければつまら
ない写真を増やすだけになる。
そこで、二人で色々考えるわけだが、私とまなちゃんでは考えていることは違って当然である。
もちろんカメラマンとモデルであるから立場が違うのだが、私が「次はこんな撮影をやろうか?」
と提案して、ひらめいたイメージに近い写真をメールしたりするわけだ。
その時私はロケーションも含めて、全体のトーンと雰囲気を映像として描いており、その段階で使
うレンズや光の加減も含めてイメージする。
片やモデルであるまなちゃんは、送られてきた写真や私の説明したシチュエーションを元に、自分
をどんな女の子または女性に仕立て上げ、何を感じ表現するかを考える。
その後、実際に撮影になると、私もまなちゃんも事前に用意しているイメージの世界と、実際のロ
ケーションを融合させて具体的な形にしていく。
だから、アドリブ的にどんどん新しくその場所で感じたままに突っ走ることも少なくないが、お互
いの感性が大体解っているので自然にそれが出来る。
相手の想いを探りながらではあるが、根底の部分で解かり合えているので、大きく考えがズレるよ
うなことはない。
最近は、広島での撮影も多いし、撮影以外で逢った時に時間を見つけて急遽撮影することも増えて
きたが、私が何かを感じて選んだロケーションに対して、まなちゃんも敏感にそれを感じ取ってく
れるようになった。戸惑いながら私の指示を待つような感じはまったくないのである。
それは、一歩間違えればまなちゃんに撮らされていることにも繋がるわけだが、かろうじて私が撮
影のイニシアティブを握らせてもらっている。そんな中で目の前のモデルが自分の描いたイメージ
通りに演じてくれることほど気持ちのいいものはないのだ。
才能有る女優を前にした演出家の気分とは、このようなものであろう。
女優たるもの、演出家の言いなりに演じていればいいのではなく、自分の中で消化されて表現でき
てこそ、自分でも満足できるはずで、まなちゃんにはそれに通じるものがあるのは私にも伝わって
くる。
そこまでくれば、私は演出家からカメラマンであり、時には共演者にもなるのだが、要所要所でコ
ミュニケーションを取りながら、どのような撮り方をすればまなちゃんを上手く活かせるかを考え
るのだ。
だから、撮影中にはそれほど誉めることもしないし、笑わせようとギャグを放ったりはしない。
私がシャッターを切れば、誉められているのだとまなちゃんは解っているので、そのまなちゃんが
演じる被写体と会話できればと思っている。
もちろん、一通りシャッターを切り終えれば、誉めてあげるのは当然のことだ。
こうやって続けて来たわけだが、私のところにはよく『素顔のままで』を見た方達からメールをも
らうのだが、写真そのものの感想や撮り方の質問などもあるが、必ずと言っていいほどまなちゃん
の名前が出てくるのである。
もう、すでに彼女は私の撮るポートレートのモデルの一人ではないのだ。見る人はポートレートを
観るというより、まなちゃんを観に来てくれているのがはっきりと分かる。それだけ大きな存在感
を持っているようである。 今回のまなちゃんは、どんな感じだろう・・・?ってね。